2015/02/28

命がけの卵

そういえば、先日、1羽ニワトリが死にました。
尻ツツキなどで時々死ぬことはあるのですが、今回はいつもと違う死に方でした。
こういう死に方に出会うのは、私は2回目です。

以下は、1回目、この死に方に遭遇した時の私の文章です。

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ニワトリ小屋でのこと。

「こないだ、ニワトリが、卵が産めそうで産めないみたいな状態になってて、
卵が詰まっちゃてる感じだったから、助けてあげようとしたんだ。
卵はもうほとんど見えてて、外に出てきてたから、
手伝ってあげようと思って、それを引っ張って、とってあげたんだよね。
そしたら、そのニワトリ、次の日には死んでたんだ・・・。」

ああ、そうか、と思って。

なんだかひとつの象徴のような気がしました。

生めそうで生めない苦しみ。
助けてあげたくなるし、助けてもらいたくなるけれど、
まわりに助けてもらって生んだところで、
自分の力で生み出したわけじゃないから、
死んじゃうんだな、と思いました。

本人も、たぶん、卵も。

話を聞いてもらったり、相談にのってもらったり、
アドバイスをもらったりすることも必要だけど、
最後の最後の生むところは、自分の力でやらないとダメなんだな。
そうじゃないと、自分のものにならないんだな、と。

自分のやりたいことと、できることと、すべきことと。
そして、それらをどうやって形にしていくか、ということ。
私は、つい難しくいろいろ考えてしまうのだけど、
シンプルに、でも力強く、
新たな一歩を踏み出していきたいと思います。
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ここまでが1回目の感想。2011年11月11日の記録です。

2回目になると、また違った感想というか、想いが生じます。
1回目のときより、地に足がついた感じというか、なんというか。
まず、「ありがとう」、という気持ちが一番強くて、
あとは、おつかれさま、おつかれさま・・・と、その一言に尽きるというか。

感じ方が違うのは、2回目だからというより、
私の状況や状態が1回目のときと違うだけなのかもしれませんが。

自分自身がお産を経験したこともあるだろうし、
いま置かれている状況によるところも多いのではと思います。
あの頃より、生や死というものが特別なものではなく、身近なものになっているからかもしれません。

そんなことは、さておいて、
私たちは、日々、命がけで産んだ卵を頂いているという事実に変わりはありません。
ありがたさが身に染みる想いがしました。

そして、これは、その子が産んだ最期の卵。
きれいな映像でなくてすみません。
でも、苦しんで苦しんで、やっと産んだ卵です。
なんだか、残しておきたくて、残してあげたくて、思わず写真を撮りました。

ありがとう、ありがとう。
おつかれさまね。